吉田茂の縦横学的分析

007_1

◇32人目の総理大臣

◇誕生~1878年9月22日                  ◇死亡~1967年89歳没

◇就任時~1946(丙戌)年67歳           ◇在職期間~延7年2ヶ月           

◇出身県~高知(出生は東京)           ◇学 歴~東京大学法科卒

◇経歴/業績~外務次官、外務大臣、貴族院議員、復員大臣、農林水産大臣、衆議院議員  

        皇学館大学総長、二松学舎舎長

        サンフランシスコ平和条約締結、吉田学校と言われた政治家の人材育成 

       【宿命運】                   【大運】             

  癸 辛 戊     - 牽 恍            <天中殺><東>

辰 卯 酉 寅 申   鳳 龍 司         5歳 壬戌     進

巳 乙 辛 丙 酉   貴 龍 胡         15歳 癸亥     進

                        25歳 甲子     進

◇24分類~KC        ◇天沖殺~無   35歳 乙丑    【進】

◇体力指数~154(小)     ◇守護神~月干  45歳 丙寅     退

◇気力指数~20(中)      ◇一気格~無    55歳 丁卯     退

◇活動期~平和期3        ◇三連結~無    65歳 戊辰  ★  退 

◇行動タイプ~集団行動5     ◇干合~戊癸    75歳 己巳  ★  退

◇リーダー資質~四領域・対沖× ◇位相法~対沖   85歳 庚午     退

◇対人関係           ◇初代運~二条件

  <縦> 目上● 目下●     後継者運」~一条件

  <横> 社会○ 家庭●    ◇人の器(八門法)~南方型

◇人物的本質

1.冷静な観察力を持ち的確な批判精神を持っている。

2.環境が味方する場合としない場合とでは、性情・気質に大きな開きがあり、利点・欠点の差が大きい。

3.表面に現われるエネルギーよりも内面に蓄積されるエネルギーの方が大きいため、何事においても耐久力

        のある行動性を所有している。

4.環境が味方しないと蓄積されているエネルギーが瞬間的に爆発状態を起こし、この星が爆発状態になると

       抑える方法は見当たらない。

5.エネルギーと星の器が相当大きく、大きいだけに細かい人情が現われ難い。

6. 同時に責任の受け止め方が小さいために器の大きさとの間にアンバランスを起こし、人生の究極や大切な

        時に放浪性を発揮する可能性を持つ。

◆総理大臣になれた適性と強運度、及びその他の要因

 ◇適性~牽牛星、龍高星2個  

 ◇強運度~月干守護神、大運天中殺七旬~八旬

      通常は晩年期の大運天中殺は陰転するが、前の六旬に丁火が回ることで宿命の干合変化による火性

                  とで守護神の辛金を尅す忌神効果の影響があり、大運天中殺が陽転したと考えられる。また七旬・

                  八旬の20年間は専気が回り自分のエネルギーが一定方向に集中し、その上に七旬の方三位の成立

                  は一分野に専念することで集中力が発揮出来る時期であった。

 ◇その他~幣原内閣総辞職後、第1党の自由党総裁鳩山一郎が公職追放のため後任総裁を吉田に依頼し、第1

                  次吉田内閣が成立した。これは旧憲法下で天皇の組閣大命による最後の総理であり、非衆議院議員

                 の最後の総理であった。また実父が公選議員であったため世襲政治家が総理になったのも吉田が初

                 めてである。

◆歴史的事実やエピソードと縦横学的要素

◇高知出身の自由民権運動家を父に実母の身元は不明、3歳で父親の親友で貿易商の吉田家の養子になる。

⇒24分類法の縦の六種類のCタイプは特に片親との縁が薄いことと家系のはみ出し者的存在であることが

     特徴である。

◇少年期は大磯にて育ち、10年余り学校を渡り歩いた末、学習院大学科に入学するが閉鎖のため東京帝国大学

    法科大学に移り1906年政治科を卒業する。同年外交官試験に合格し、同期に廣田弘毅がいた。

⇒宿命運の陽図にある龍高星は体験から学ぶ学習本能で放浪性があり、外国と縁が深いことが特徴である。

◇外交官の花形は欧米勤務であったが20年の多くを中国で過ごす。1928年外務次官に就任し、外交的には英米

    との関係を重視した。1936年の廣田内閣で外務大臣の候補であったが陸軍の反対で叶わず、駐英大使になり

  日英の親善を目指して、日独伊の三国同盟に強硬に反対し、1939年特命大使となり外交の一線から退いた。

⇒1936年は本人に「逆気」が回り運気が荒れ、旺気刑で仕事関係のトラブル、破で物事が不完全に終わる時期

    であった。

◇1946年5月自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴い総裁に就任、内閣総理大臣に就任して第一次吉田内閣が 

     誕生する。

⇒1946年は運気的に「生気」が回り、人に助けられ、担がれる時期であった。また上記の強運度を参照。

◇1947年日本国憲法公布により国会議員であることが総理の条件となり、実父の選挙区である高知全県区から

    立候補した。吉田はトップ当選したが与党の日本自由党が日本社会党に敗れたため、片山内閣が成立したが

    長続きせず、続く芦田内閣も1948年に昭電疑獄で瓦解した。

⇒1947年は運気的に「逆気」が回り、運気が荒れて、目的から反れる年であった。

◇1848年10月吉田は第2次内閣を組織し、直後の衆議院議員総選挙で自由党が大勝し、第3次吉田内閣を発足

   させた。これは3年8ヶ月の長期内閣であった。

⇒1948年も「逆気」であったが1949年には「専気」が回り、エネルギーが一定方向に集中した自力運の時期

     に入った。

◇1951年サンフランシスコ平和条約と米国との安全保障条約を締結する。帰国後の内閣支持率は58%に上が

   った。

◇独立達成を花道に退陣論があったが、第4次、第5次と続投した。その間公職を解かれた鳩山との抗争や度重

   なる汚職事件、特に造船疑獄では幹事長の佐藤栄作のための指揮権発動で多大な批判を浴びて支持率は下落

   した。

◇1954年野党の不信任案に対し、解散で対抗しようとしたが、側近に諌められ12月に総辞職する。

⇒1951年~1953年までは「逆気」が続き、変動の大きい運気の荒れた次期であった。1954年から本人は

  「生気] に入ったが周りから諌められ総理大臣を辞める。

◇癇癪持ちの頑固者であり、洒脱かつ辛辣なユーモリストの一面があった。

・客人に居留守を使い、ばれて抗議すると「本人がいないと言っているのだから、これ以上確かなことはないだ

    ろう」

・日米平和条約に反対した者に「このご時世、番犬ぐらい飼っていいだろう。犬と餌代は向こう持ちなんだよ」

・訪米し外国人記者に元気な様子を褒められると「元気そうなのは外見だけ。頭と根性は生まれつき良くない

    し、 口は美味いもの以外受け付けず、耳は都合の悪いことは一切聞こえない」健康法は「人を食っている」

・カメラマンのしつこい撮影に激怒し、コップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないのか」

・地元高知県から有力者が陳情に訪れると「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」

・引退後、宮中園遊会で昭和天皇が「大磯は暖かいだろうね」の呼びかけに「はい、大磯は暖かいのですが、

    私の懐は寒うございます」

・吉田が鳩山から自由党総裁を引き受けた時の三条件は下記の通りで鳩山を憤慨させた

  ①金作りは一切やらない

  ②閣僚の選考に一切の口出しは無用

  ③辞めたくなったらいつでも辞める

 ※養父からの膨大な遺産相続は吉田が冗談に「吉田財閥」というくらいであったが吉田が一切利権にかかわ

       らなかった証拠にほとんど、その遺産を残さなかった。

⇒行動範囲が四領域で位相法が対沖の「四位風型」あり、用心深さと無鉄砲さが同居した運命の矛盾が起き、

    それが奇想天外な言動を生んだと考えられる。また晩年期に子供の星である「天貴星」が回っており、

     この影響で悪戯っぽい言動があったり、体力指数が154とローパワーにもかかわらず、気がしっかりした

      状態で体調も若さを維持し、89歳まで長寿を全うしたと考えられる。

2014年9月21日