縦横学


<写真>無何有の里 徳島県海部郡美波町山河内字西山

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』と言いますが、この言葉の本当の意味を考えたことがあるでしょうか。人間がつくり出した「物質文明」は確かに歴史と共に発展・進化の道を辿り、今でも日進月歩の勢いで変化をもたらしています。これは「物質世界」は有形=現実=横線の世界であるため、目の前の現物を見たり、先人の業績のデータを見ることで常にその上を目指して来た積み重ねの結果であります。その結果、人間は人間自身も進化していると錯覚していると思われます。
本当にそうでしょうか。確かに過去の人間に比べ肉体的・体力的には向上し、平均寿命も延びていることは確かです。しかし宇宙や自然界の歴史から考えると20~30年はほんの一瞬であること、「肉体と精神を以って人間」と考えると、人間に備わったもう一つの大切な部分である「精神世界=無形=縦線」はどうであるか、そこに行き着くことになります。
人間の精神世界は常にゼロからの出発であり、本人にとっては本人の経験は積み重ねになりますが死によってまた無(ゼロ)に戻ることが繰り返されています。つまり人間の「精神世界」は先人からの積み重ねが出来ないことが「物質世界」との大きな違いであります。そのため西洋では精神世界=宗教(神)世界と決めております。しかし西洋と宗教観が違う東洋の先人は人間の精神世界を「歴史に学ぶ」ことを考え、そのために司馬遷の『史記』に代表されるような歴史書が残され、賢者はそれを学んだのであります。そうした経験から『歴史は繰り返す』『社会法則は人間の意志や意識とは関係なく独自に動く』などの言葉が生まれています。
現代の欧米崇拝で西洋化した日本人は本来の東洋思想の精神を学ばず、また西洋的な宗教への拠り所も持たず、唯々「物づくり」に邁進して来ましたが、今こそ世界の本当のリーダーになるために東洋の先人の人間学である「精神世界」が求めれれています。


縦横学のすすめ

自然界と人間

 この学問は東洋の先人達が大きな犠牲と努力を払って残してくれた悠久なる知恵の遺産であり人間学である。現代の人間はいろいろな出来事に出会っても、何らかの形で先人達が体験した前例の蓄積を持っている。そしてこの学問は先人達が作り上げた体験的な自然科学理論である。先人達にとって人間の何たるかを知らしめてくれたものは、勿論人間でもなく「神」でもなかった。彼らが師と仰げるものは広大な自然界であり、この自然界が「神」であることに気付き、すべての自然現象を神として受け止めた。

 先人達にとって自然(神)の意志を知ることは、自分達の人生に神の力を引き入れることにつながった。その裏には自然(神)に逆らうことが人間の破滅につながることを知っていた。つまり自然界の法則(神)を知り、それに従うことが安全であり、逆に自然の力を利用することになることを知った。先人達にとって自然界は現代人が考える以上に厳しく恐れていたし、生活に密着した生活の糧であった。それだけに自然は天の恵みであり、破壊の悪魔でもあった。

 こうした考え方からその後、神論の成立になるが、他の宗教のような人格化された神ではなく自然現象の全てを神の意志と捉え、神は人間の心の中と大宇宙を結ぶ線によってつながっているという理論になった。そして山にも海にも身の回りの物にも神がいると考え、道ですれ違った他人でも、神が何らかの意志を伝えている縁であると考えた。

この考え方の根底には自然(神)の助けを求めるのではなく、自然(神)が教えていることを人間が掴み取り、それを実行するのである。そのためには人間自身の心の中の感性や次元を高くしなければ、自然(神)の高い次元の意志を掴めないと考えた。つまり「人間の心の感性が鈍ければ自然(神)の低い意志のみを掴み、人間の心の成長が高ければ高い位を持つ自然(神)に接することが出来る」と考えた。

そして心の成長は学問によって成長させても良く、信仰によって成長させても良く、与えられた生活や職業の中で高めても良いと考えた。この学問(縦横学)がこれまで宗教化することなく、自然科学思想的な道を歩んだのはこうした考え方による。

 自然の仕組みや法則は自然(神)が人間に何事かを知らしめているという発想を元に天の運行や地上の変化を観察して、それを人間の生活上の指針にしようしたため、この学問が倫理自然科学的な方向に進んだことは理の当然である。そしてこれら古代中国で発した科学のすべてが倫理的なものに裏打ちされていて、そこに西洋とは違う東洋人独特の発想が存在している。同時にその倫理性の中にこそ東洋があり、自然科学に基づく倫理性を除いて東洋の思想を論じることは不可能である。この学問の発祥の地も古代中国であり他の自然科学と同様に倫理性を大いに含んでいる。

2014年8月19日