縦横学の歴史

◆縦横学の源流と鬼谷子

世界史で東洋の世界を勉強すると必ず目にするのが中国の春秋戦国時代(BC770~BC221)に活躍した思想界の「諸子百家」の存在である。そこには儒家・道家・墨家・法家・陰陽家・名家・農家・雑家と並んで主要九流の中に必ず目にするのが「縦横家」の存在である。そしてその主要人物として「蘇秦」と「張儀」の名前が上がり、蘇秦は『鶏口となるも牛後となる勿れ』の説を持って、対「秦」の包囲網として「合従論」を説いた。

これに対して、張儀は「秦」との同盟を結ぶ「連衡論」を説いたとされている。そして一説では縦横家の語源は地理的に秦が中国の西方に位置していたのに対して6国(燕・趙・魏・斉・韓・楚)が東方に北から縦に並んでいたことから、合従論を縦の結び付きとし、連衡論を横の結び付きとしてそれぞれに活躍したことから縦横家と名付けられたとする説がある。

司馬遷の『史記』には蘇秦と張儀の二人が「鬼谷子」に学んだ兄弟弟子であることが明記されており、鬼谷子は戦国時の縦横家で地名「鬼谷」に住んだことからそれを号としたとある。そして鬼谷子については酒井洋著“より巧みに生きる縦横学的発想のすすめ”孫子が超えられなかった男『鬼谷子の人間学』からその一端を知ることが出来る。

この本はかつて日本軍の情報参謀なら必ず読んでおくべきと言われた本の『鬼谷子』の解説本であるが、この中で酒井氏は鬼谷子に学んだ弟子達として縦横家の蘇秦と張儀以外に孫子の兵法で知られる兵家の孫臏(そんぴん)と龐涓(ほうけん)の名前を挙げるなど神仙家や易占家達にも影響を与えた人物としている。そして『鬼谷子』の中身は縦横学を説いたものでも兵法学を説いたものではなく「他人の説得法」であるとしている。つまり縦横学の本当の中身はこの本からでは知ることが出来ないことになる。

そんなこともあり鬼谷子にしても弟子の蘇秦・張儀にしてもその姿は歪められ歴史的に評判が悪い。その大きな理由が「縦横学」の本当の中身が秦の始皇帝の統一以来「門外不出」となり、ほとんど隠されて研究された運命にあったことが大きな原因であると考えられる。

司馬遷は蘇秦について『蘇秦は最後に反間(スパイ)の悪名を被って死んだので、世間はこれを笑い、その術を学ぶのを嫌がった。蘇秦の物語は世間にいろいろの異説がある。これは時代の違った遊士の話で似たようなものを、みな蘇秦に付会したためであろう。自分はその事跡を整理し、順序立てて蘇秦に悪評ばかりあびせることのないようにしたつもりである』と言ったと伝えられている。縦横学の本当の中身を知ることが出来れば、蘇秦が中国史上で最高の出世男の一人になった理由が解かると思われる。

2014年6月2日